学部・大学院区分
Undergraduate / Graduate
法学部
時間割コード
Registration Code
0302070
科目区分
Course Category
専門科目
Specialized Courses
科目名 【日本語】
Course Title
特殊講義(比較政治思想)
科目名 【英語】
Course Title
Advanced Lecture(Comparative Political Thought)
担当教員 【日本語】
Instructor
加藤 哲理 ○
担当教員 【英語】
Instructor
KATO Tetsuri ○
単位数
Credits
2
開講期・開講時間帯
Term / Day / Period
秋 月曜日 3時限
Fall Mon 3
対象学年
Year
2年
2
授業形態
Course style
講義
Lecture


授業の目的 【日本語】
Goals of the Course(JPN)
真理探求の営みとしての「学問」も、それが行われる場所も、決して本来は「大学」だけに限定されたものではありません。いまでは一般的なものとして流通している「研究」や「科学」という学問の一形式も、比較思想史的な視座から眺めるならば、ヨーロッパ世界、それも近現代――あるいは、もっと短くここ数十年かもしれない――という非常に限定された時空間においてのみ妥当性を有するものに他ならず、唯一的な普遍性を永続的に独占するべきものではないのです。

実際に、わが国においても古来、学問の形式として神道や儒教や仏教など、少なくとも明治における西洋世界との邂逅以前、国民国家の導入とともに西洋型の教育システムが輸入され全面化される以前には、学問が実践されるあり方やそれが遂行される場所に、多種多様な形態が存在してきたことは歴史的事実でしょう――いまや「学問」や「知」というと、誰しもがすぐさま「大学」や「研究」をイメージする程度には、その伝統的血脈は失われてしまっていますが、私たちが学問を語るに際しては、「養生」や「稽古」や「修養」、「道」や「知行合一」といった豊富な語彙も残っています。

しかしながら現状に鑑みるに、一般に「政治思想史」や「政治哲学」や「政治理論」という名称を耳にするとき、「プラトン」から「ロールズ」などの西洋の思想家か、あるいは「自由」や「平等」や「デモクラシー」という欧米を起源とする概念や言葉を想起するように、私たちは、いつの間にやら習慣づけられています。あるいは社会科学としての「政治学」全般を概観しても、およそ「最新」の何かとして歓迎される手法や価値は、すべて英語によって表現されるか、またアメリカやヨーロッパからやってくるというような、「漢心(本居宣長)」的な偏見は、なおも残念ながらわが国――のみならず非西洋世界――の学術界を規定する根本的な気分となっているといえるでしょう。

「比較政治思想(comparative political thought)」――ないし「比較政治理論(comparative political theory)」とは、上記のような学術界におけるヨーロッパ中心主義に対する根源的な批判の試みとして、1990年代の末に勃興した政治学の新興領域です。本講義では、この新たな学問分野の知見を活かしつつ、非西洋世界における「政治思想・哲学」について、その伝統を形成してきた中心的人物やそのテクストと対話をしていくことで理解を深めていきます。

年度によって「比較」という視点によって登場する主題、人物やテクストは異なったものとなりますが、私たちが帰属している東アジア世界だけにとどまらず、インドやイスラム、アフリカやラテンアメリカなどの種々の異なった文明圏や地域の思想や哲学なども取り扱いながら、一般的に私たちが現代の大学で「政治学」を学ぶ際に自明なものとなっている前提を根源的に疑い、「学問」や「知」のあり方を含めて、「政治」を「思考」――という言葉を用いるのがふさわしいか自体が問われてしかるべきですが――するための全く異なったあり方に自身を根源的に開いていくことが、本講義の究極的な目的となります。
授業の目的 【英語】
Goals of the Course
Neither "learning" as a search for truth nor the place where it takes place was originally confined to "universities". The forms of "research" and "science" that are now commonly circulated are, from the point of view of the history of comparative thought, valid only in the European world, in the very limited space and time of the modern world - or perhaps even in the last few decades. It cannot have a permanent monopoly of universality, but only of relevance in a very limited space and time.

It is a historical fact that in Japan, too, there have been many forms of learning, such as Shintoism, Confucianism, Buddhism, etc., at least before the encounter with the Western world in the Meiji period, before the introduction of the nation-state and the comprehensive Western educational system. It is a historical fact that, before the importation of the educational system and its full application, there were many different ways and places in which learning was practised. When we speak of learning, we still have a rich vocabulary of words such as "稽古", "養生", "修養", "道" and "知行合一".

In general, however, when we hear the words "history of political thought", "political philosophy" or "political theory", we are accustomed to think of Western thinkers, from Plato to Rawls, or of Western-origin concepts and terms such as "freedom", "equality" and "democracy". Or even when we turn to "political science" as a social science in general, we still unfortunately have the "漢心 (Motoori Norinaga)"-like prejudice that everything that is hailed as "up-to-date" is either expressed in English or comes from America or Europe. This is still unfortunately the fundamental atmosphere that defines the academic world not only in Japan but also in the non-Western world.

"Comparative political thought" - or "comparative political theory" - is an attempt at a fundamental critique of Eurocentrism in academia. Comparative political theory" is an relatively new field of political studies that emerged at the end of the 1990s as an challenge to revise this Eurocentrism. In this course, we will use the knowledge of this discipline to deepen our understanding of "political thought and philosophy" in the non-Western cultures by engaging in dialogue with the central figures and texts that have shaped them.

The subjects, figures and texts will vary from year to year, depending on the "comparative" perspective, but we will deal not only with the East Asian world to which we belong, but also with the ideas and philosophies of different civilisations and regions of the world, such as India, Islam, Africa and Latin America. In general, we should question fundamentally the assumptions that have become self-evident when we study "political science" in modern universities, and the aim of this lecture is to open ourselves up to a very different way of "learning" of/about politics.
到達目標 【日本語】
Objectives of the Course(JPN)
まず本来的な意味における思想や哲学、ないし宗教の「比較」とは、それを理論的に学問的「対象」として類型的に並べ立てて俯瞰するような「研究者」的な視点――そのような無意識に身につけられた目線をまず疑うことが本講義で求められることは上述の通りですが――によっては生じてくることはありえません。また、そういう、世界中にはああいう思想もあれば、こういう文化や宗教もある、どれも面白いし、どれもそれぞれに価値があって尊重されるべきだよね、というような、多様性/ダイバーシティという美名で偽装された単なる無思考と無責任、さらには「リベラル」な寛容で世界を一色に塗りつぶそうとする自らの暴力性への無自覚を身につけることは、本講義の到達目標ではありえません。

あるいは、それはまた、「比較」の名のもとに、ただ自分の帰属している文化や伝統から目を背け、それに唾を吐きかけたり、それを相対化するだけに終始して、それで自らのことを伝統から解放された自由な批判的知識人であると思いこむような傲慢で滑稽な態度を習得することでもありません――本来的な他者との出会いは、まずは自己の伝統に対する根源的な理解なくしては、ただ「出羽守」的で空虚なソフィスト的詭弁に陥ることを忘れてはいけません。

そうではなく「比較」とは、自らに所与として与えられた文化や宗教に実存的に深く内在しつつも、自覚的かあるいは運命に誘われて、越境的に生きた思想家や哲学者の歩みそのものによって、一つの「出来事」としてしか生じえないものです――それは、この営みが本質的に、研究上の「方法」として抽象化することが、そもそも不可能ということでもあります。

本来的に意味のある「比較」は、自己の伝統を太古へと遡行しつつ創造的に継承するという縦軸の方向性と、現在における邂逅を触媒としてそれを他者へと絶えず開いていくという横軸の方向性と、いずれをも安直に放棄することのないような緊張と葛藤を背負いながら歩まれた具体的な実存のうちに、はじめてその生きざまの証や足跡として結晶化されるものです。まず本講義で取り扱われるテクストが、理論上の空疎な命題や無味乾燥たる情報・知識などではなく、そのようにして体験的に戦い取られた言葉であることを忘れないでください。

その点をよくよく肝に銘じていただいた上で、本講義の到達目標を端的に表現するのであれば、皆さまが真の意味において「比較思想」的に、人生を歩んでいくことができるようになること以外にはございません。

それはたとえば、自分探しや承認願望の満足のために旅行好きと称してスマホを片手にSNSの「いいね」を横目に全国をうろつきまわったり、就職活動の拍付けのために留学と銘打って世界の各地の表面をなぞって歩くような、他なる文化や伝統を、自己実現や成長とやらの道具とする、無邪気でありふれていながらも、途方もなく不遜な態度ではありません。

また自分がたまたま勉強をした研究上の図式を使って、世界中のありとあらゆるものを一括して理論的に取り扱うことによって、あたかも地球全体を俯瞰する視座を手に入れたかのような錯覚に陥ったり、「グローバル」や「国際」などという形容詞の名のつくものと一体化することによって、脚下にあるちっぽけな自分の実存を忘却し、美しい「夢」を追いかけ続けるノマドになることでもありません。

また実際には「科学」や「英語」という国境を超える「普遍性」を偽装した道具を色眼鏡として、偏った視座のみによってしか世界を見ることができていないにもかかわらず、一見して「国際」的に開催される学会や研究会、学術交流に参加し続ける根無し草な生活世界を浮遊し続けることによって、あたかも自らの心身が有限性や歴史性の制約を脱ぎ捨ててグローバルに拡張しているかのような錯視に陥ることでもありません。

自らの悟性の産物や想像力や思念がどれほど世界大に広がっているような妄想に耽っていても、生身のちっぽけな身体は、歴史や風土のもつ具体的な肌触りを欠いた無機質な情報を投影する小さな画板を前にして、そこに映る像を視覚のみによって受信し、指先のみで処理しながら――しかしその不自然な姿勢が引き起こす肩凝りや腰痛などには時に無言の悲鳴を上げながら――微動だにせず佇んでいるに過ぎないだけなのだ、ということを忘れてはいけません(そして、そうして楽しく仮想現実と戯れているあいだにも、その身体はまた無に帰するべく、刻一刻と死に向かって一歩ずつ朽ちていっているのです。そこにこそ、グローバルな問題と向き合う以前の根源的な問いが隠れているということにお気づきでしょうか。それとも皆さんは、いまわの際の末後の一句として「SDGs万歳!わがグローバルな人生に一点の悔いなし!」と叫びながら死んでいくのでしょうか)。

複数の文化圏の接触が本来的に引き起こしうる葛藤や苦悩をその身に背負いながらも、両者を架橋しうるような共通の根源的な問いの地平に導かれつつ、そうした越境的な生き方を自らの宿命として甘受し、自らの生きる「道」を探求し、それを血肉のこもった言葉として残していった。むしろ本講義で要求されるのは、そうした先人たちのテクストを新しい仕方で現代において皆さん自身が読むという過程それ自体が、各々の実存を器とし、また講義を場所とするような、新たな「比較思想」的な「出来事」や事件となることなのです。

そうして他なるものに対する理解を獲得していくことが、根源的には自己自身をより深い次元から捉えなおすことと不即不離になっている、そういう道程を倦むことなく歩んでいくことのできるエートスを血肉化していくことこそが、本講義の究極的な到達目標になります。それはまた、内容空疎で顔のない根無し草に過ぎない「グローバルな人材」などになろうと躍起になることをやめて、わが国が培ってきた歴史的伝統を根源的に背負いつつ、それを他なる伝統との出会いの中で刷新なおしていくことのできるような、真の意味における「国際人」を志すことでもあるでしょう。
到達目標 【英語】
Objectives of the Course
授業の内容や構成
Course Content / Plan
まずは「比較政治思想」という学問領域についての一般的な説明をしたうえで、その後の講義の展開としては、いくつかのパターンが考えられます。

① 文明横断的・越境的な歩みの中で自らの思想を形成した哲学者たちの歩みの何人か取りあげることによって、複数の文化圏の特質について理解を養うと同時に、その間に生じる重なりや葛藤を明確にする。

② ある主題を中心に据えた上で、複数の文化圏がそのような問いに対してどのように応答してきたかを考察することで、それらの共通性や異同についての理解を深める。

③ 比較思想的、文化間的な対話が出来事として生じた一つのユニークな場として明治維新から太平洋戦争終結までの日本思想の歩みをとりあげながら、複数の文化圏の接触によって明らかになる重なりや葛藤について理解を深める

どの形式を採用するかは、年度ごとに変えていこうと思っております。

「授業の構成」として、何が扱われるかが前もって記載されないことに困惑する方々もいるかもしれませんが、むしろ思想や哲学、あるいはテクストの読解を媒介とした新たな発見や他者との出会い、そこに生じる「縁」のもつ、生き生きとした「出来事」的な性格を楽しむつもりで講義にご参加いただけましたら幸いです。
履修条件・関連する科目
Course Prerequisites and Related Courses
人間であればそれでよいです、人間であることは難しいことですが。
成績評価の方法と基準
Course Evaluation Method and Criteria
他者からの「成績評価」に一喜一憂したり、あるいはその「方法」や「基準」がなければ、どうすればよいのか途方に暮れてしまう、そんなあり方から脱却することが、まずは「思想史」を学ぶこと、真摯に生を引き受けることへの第一歩になります。

ゆえに、はっきりと「成績評価の方法や基準」を、ここに端的に示しておくならばそれは、どれだけあなたが、「成績評価の方法や基準」などという文言に囚われない人間となっているかどうか、というものになります――「生きること」や「存在すること」に、何かお勉強や研究によって習得できるような便利な「方法」や「基準」がある、と考えるのであれば話は別ですが。

では、そのような形なきものを測りうるような尺度がどこにあるのか。この講義の成績評価も学期末の試験かレポートによって行われることにはなりますが、講義が真に活きたものとして、教えるものと学ぶもの、そしてそこに登場した思想家や哲学者とのあいだでの、ほんものの人格的交流となっているならば、そのような問いに対する答えは、自ずと講義の全体を通して自覚されてくるものだと思います。

この講義において私たちに問いかけられ、要求されているものは何であるのか。偉大な先人たちの言葉によって自らの魂が根底から揺さぶられるような「出来事」として、毎回の講義をきちんと「体験」してさえいれば、その問いに対する答えは、学期の終わりには、皆さん自身のうちで自明のものとなっていると思います(もちろん、これは形だけの出席を義務づけようとするものではありません)。あとはその歩みのうちで沈黙のうちに形作られてきた何かを、試験やレポートという形式を借りて、自分自身の腹の底から言葉で表現する、ただそれだけ、簡素といえば簡素なことです――借り物の知識で多弁を弄するより、真の意味でわがものとなった言葉で簡素に語ることの方が実は難しいのですが。

これ以上「成績評価の方法や基準」について何か文章によって語ることは、講義そのものを形骸化した死物にするものですので、差し控えることにいたします。何かこの点について疑問があるようでしたら、具体的に「加藤」という一箇の人格に直接お尋ねください。いつでも歓迎いたします。

こうした思想や哲学という学問の性質上、本講義の成績は講義という限られた時空間で定められるべきものでもないし、本来ならば皆さん以外の誰かが数値化して評価を下すべきものでもないのですが、さしあたって試験やレポートでは、皆さん自身の存在の瞬きが行間からにじみ出てくるような解答を期待しています。一つ問いに切実にぶつかるごとに、また一つ自らの実存が深まっていく、そういう体験からのみ生じる真の喜びを答案に表現していただければ幸いでございます。
教科書・テキスト
Textbook
こちらからレジュメを配布いたしますが、そこで語られる言葉を真に活きたものとするのは私たち自身の心の創造的な働きです。それを忘れてしまえば、すべての言葉は自分や他人を惑わすか、あるいは眠りに誘うだけの死物となってしまうことを注意しながら一緒に講義を生み出していきましょう。
参考書
Reference Book
特にありませんが、森羅万象からなる日常そのものが皆さんに教えを説いている参考書であるということを忘れないでください。また、日常のもつ豊かさや深さから皆さんを果てしなく遠ざけていってしまう、娯楽や気晴らしにはどうぞご注意を。

容易に情報や知識を手に入れることができるツールが巷ではますます溢れかえっていますが、氾濫する膨大な記号の喧騒の中から自分が素朴に問うべきことを教えてくれるような真の参考書は実は、紙面上でも画面上でもなく、日ごろ疎かにされがちな自分の心のうちに静かに眠っているのかもしれません。文明の利器に囲まれずとも、書架に厳めしい本が一冊もなくとも、この身一つさえあれば、いつでもどこでも堂々と学問しながら生死を歩んでいくことができる、そういう境地をぜひ養っていってください。
課外学習等(授業時間外学習の指示)
Study Load(Self-directed Learning Outside Course Hours)
特に課外学習はありませんが、比較思想的な視点を養うためにも、平素から研究書や専門書に囚われることのないような読書経験が推奨されます。

また、偶然いま現在において欧米を起源とする「大学」で展開されている「研究」というあり方が――あるいはそこから逆算された大学教員によって執筆された教科書を基礎に行われる「お勉強」――「知」や「学問」と呼ばれるもの唯一の形態であるという錯覚から脱却し、さらにそのうちでトレーニングを受けることで無意識に「規律化(フーコー)」されてしまった自己の生活様式をその呪縛から解放するためにも、「研究」という生活形式の外部において、まったく別の「学問」的伝統と呼ばれうる何かによって修養に努めるのも、大事なことだと思います。

ヨーガの実践でも、スーフィズムでも、坐禅でも静坐でも、キリスト教的瞑想でも、禊の行法、武道や芸道でも、実際にはその気になれば、そのような別の学問形式はいくらでも世界に残されているのです。ただし、あまりに知性に偏重した「勉強」や「研究」を媒介にして世界に関わる悪習をつけすぎると、そこで培ってきた業績や能力を捨て去って、そのような「非研究的学問」へと実参実究する勇気と覚悟が失われてしまうので、ご注意くださいませ。まずは「お勉強」という、ある特殊な「知」の枠組みにおける成功経験や優越や、それに投入された歳月と労力にこびりついたアイデンティティへの執着から手を放してみることが肝要です。
注意事項
Notice for Students
そもそも現在大学において行われているような形態で研究論文を「書くこと」や「読むこと」が、学問や真理の探求にとって本質的な事柄なのかどうか、もし大学や大学院が「高等」教育機関であるとすれば、それがなぜ人間にとって「高い」段階の教育と見なされるのか、そこで前提とされている人間像や知や学問のあり方はどのようなものか。こういったことを根本的に問いかけ、徹底的にいま自分が関わりつつ習得しようとしている知や学問の形式を相対化して、根源的に疑いなおした上で、さらにその先に「学問」と呼ばれうるものとして何が未来へと継承されていくべきなのか。

そうして習慣の惰性を打ち破って、知や学びのあり方そのものを根本的に考えなおしていくことが、この講義の目的になりますので、ぜひ本物の批判精神をもって、本講義に臨んでいただければと思います。

概念や論理、理論的構築物について自分の土俵で議論するに際してだけやけに雄弁であったり、天下国家については一人前に分析や批判をしてみせるくせに、照顧脚下、自分がいま携わっている営みや業績にその批判の矛先が向けられたとたんに、途方に暮れるか、そこから目を背けたり、それを弁護するための逃げ口上をひねり出そうと躍起になってしまう、そのようなハリボテの知性は、本講義にとっては邪魔ものでしかありませんので、まずは犬の餌にでもしておきましょう(そんな自意識は犬も食わないことは承知の上で。おっと犬に失礼ですね)。
授業開講形態等
Lecture format, etc.
本講義は「対面」にて実施されます。

このような当たり前のことを敢えて明示しなければならないことに、ここ数年のあいだ人類が経験した狂騒がよく表れていますが、そもそもプラトンがその対話篇でその姿を活写したソクラテスその人が語っているように、真なる学問や哲学的対話は、人格同士の現実における責任ある交わりによってしか存在しえないものです。

講義やゼミ、また大学という場所が、たかだか数十年の人類の発明品に過ぎないツールやアプリに断面を抽出され、音声や画面に切り詰められてしまったとしても、そこに何の実質的な変化が生じないような情報や知識での伝達の手段はなく、真の意味における「知恵」をお互いに交換し、学びあう場であってほしいものです。

「形態」に囚われることなく、活きた心の働きをもった人々がそこに集えば、いかなる制度・組織も、ツールも書物すらもなくとも、そこに「学び」の始まりは常にある。その「無一物」の精神を忘れず、いたいものです。
遠隔授業(オンデマンド型)で行う場合の追加措置
Additional measures for remote class (on-demand class)
まず以下の東洋の賢人の言葉を私たちは肝に銘じる必要があるのかもしれません。

「機械有るものは必ず機事あり。機事有るものは必ず機心あり。機心胸中に生ずれば、則ち純白備わらず。純白備わらざれば、則ち神生定まらず。神生定まらざる者は、道の載せざるところなり」。

(機械を持てば、機械による仕事が必ず出てくるし、機械をもちいる仕事が出てくると、機械に捉われることが必ず起きる。機械に捉われる心が胸中にわだかまると、純白の度が薄くなり、純白の度が薄くなると、精神が定まらない。精神が定まらぬところには、道は宿らない)