学部・大学院区分
Undergraduate / Graduate
法・博前
時間割コード
Registration Code
2302940
科目区分
Course Category
法学研究科開講科目
Courses Offered by the Graduate School of Law
科目名 【日本語】
Course Title
政治思想研究A
科目名 【英語】
Course Title
Studies in Political Thought A
担当教員 【日本語】
Instructor
加藤 哲理 ○
担当教員 【英語】
Instructor
KATO Tetsuri ○
単位数
Credits
2
開講期・開講時間帯
Term / Day / Period
春 金曜日 1時限
Spring Fri 1
対象学年
Year
1年
1
授業形態
Course style
演習
Seminar


授業の目的 【日本語】
Goals of the Course(JPN)
本演習の中心的主題は「比較政治理論(Comparative Political Theory)」である。比較政治理論は一九九〇年代末にアメリカの政治理論家フレッド・ダルマイヤーらを中心として創立された、相対的に新興の政治学の分野であるが、すでに政治思想研究の一領域として、その地位を確立しつつある。なかでも本演習は、近年のこの領域における方法論をめぐる論争に着目し、それらを取り扱った研究論文を読解することを通して、その問題構成についての理解を深めることを目的としている。それだけではなく、比較思想の領域における古典と呼ばれうる文献を読解することによって、比較思想的な視野から独自の研究上の問いを発見することができるようになることも、本演習のもう一つの目的である。
授業の目的 【英語】
Goals of the Course
The central theme of this seminar is "Comparative Political Theory". Comparative Political Theory is a relatively new field of political science founded in the late 1990s by the American political theorist Fred Dallmayr, but it has already established itself as a field of study in political thought. The purpose of this seminar is to deepen students' understanding of this field and it especially focuses on recent controversies over methodology in this area. Another purpose of this seminar is to enable students to discover their own research questions from the perspective of comparative thought by reading literature that can be called classics in the field of comparative thought.
到達目標 【日本語】
Objectives of the Course(JPN)
1)「比較政治理論」という領域全体についての基礎的な知見を獲得すること
2)特に「比較政治理論」における近年の方法論争の問題構成を的確に理解すること。
3)比較思想的なパースペクティヴから新たな研究上の問いを立てることができる見方を身につけること。
到達目標 【英語】
Objectives of the Course
授業の内容や構成
Course Content / Plan
その目的や到達目標に応じて、本演習は以下の内容と構成を取る。

➀ 「比較政治理論」の分野を概観できるような研究論文の読解

➁「比較政治理論」の方法論的発展に貢献した研究論文の読解

③比較思想・哲学における古典と呼ばれうるテクストの精読
履修条件・関連する科目
Course Prerequisites and Related Courses
「根源的に問うこと」へ開かれた姿勢があればそれでよいです、それは昨今では、残念ながら最も希少なものなのかもしれませんが。
成績評価の方法と基準
Course Evaluation Method and Criteria
そもそも「学ぶこと」や「問うこと」という一箇の人間の生死を賭けた根源的行為が、「成績評価」や「基準」などという狭苦しく平板な道具的尺度によってはまったく測定しえないことが自明であるにもかかわらず、そのような価値観が蔓延しつつある現代の「研究」の世界で、敢えて「職業としての学問」という道を選び取る決断をする困難さ。

このことを参加者当人が痛切に自覚しつつ、「それでもなお」この道をゆく、という覚悟をもつことができるようになったかどうか、それが唯一の本演習の「成績評価」の「基準」となります。
教科書・テキスト
Textbook
思想や哲学の「比較」ということが「学問」としていかに可能となるのか、ということを根源的に問いかけていくために、比較政治思想という専門領域における方法論上の論争を取り扱った論文をいくつか読解していくことで、予備作業を行います。

それを踏まえた上で、思想や哲学「比較」というものが、それを理論的に「対象」として類型的に並べ立てて俯瞰するような「研究者」的目線によってではなく、まずは自らに所与として与えられた文化や宗教に深く実存的に内在しつつも、自覚的かあるいは運命に誘われて、越境的に生きた思想家や哲学者の歩みそのものによって、一つの「出来事」としてしか生じえないものである――研究上の「方法」として抽象化することが、そもそも不可能である――このことを前提として肝に銘じた上で、実際にそうして生きた人物たちの残した言葉や文献を読解していきます。

ここで求められるのは、そうしてテクストを読むという過程それ自体が、皆さま自身の実存を器とし、またゼミを場所とするような新たな「比較思想」的な出来事となることです。
参考書
Reference Book
何かあれば講義中に指示します。
課外学習等(授業時間外学習の指示)
Study Load(Self-directed Learning Outside Course Hours)
比較思想的な視点を養うためにも、平素から研究書や専門書に囚われることのないような読書経験が推奨されます。

また、偶然いま現在において欧米を起源とする「大学」で展開されている「研究」というあり方が、「学問」と呼ばれるもの唯一の形態であるという錯覚から脱却し、さらにそのうちでトレーニングを受けることで無意識に「規律化(フーコー)」されてしまった自己の生活様式をその呪縛から解放するためにも、「研究」という生活形式の外部において、まったく別の「学問」的伝統と呼ばれうる何かによって修養に努めるのも、大事なことだと思います。

ヨーガの実践でも、スーフィズムでも、坐禅でも静坐でも、キリスト教的瞑想でも、禊の行法、武道や芸道でも、実際にはその気になれば、そのような別の学問形式はいくらでも世界に残されているのです。ただし、あまりに「研究」を媒介にして世界に関わる悪習をつけすぎると、そこで培ってきた業績や能力を捨て去って、そのような「非研究的学問」へと実参実究する勇気と覚悟が失われてしまうので、ご注意くださいませ。
注意事項
Notice for Students
そもそも現在大学において行われているような形態で研究論文を「書くこと」や「読むこと」が、学問や真理の探求にとって本質的な事柄なのかどうか、もし大学や大学院が「高等」教育機関であるとすれば、それがなぜ人間にとって「高い」段階の教育と見なされるのか、そこで前提とされている人間像や知や学問のあり方はどのようなものか。こういったことを根本的に問いかけ、徹底的にいま自分が関わりつつ習得しようとしている知や学問の形式を相対化して、根源的に疑いなおした上で、さらにその先に「学問」と呼ばれうるものとして何が未来へと継承されていくべきなのか。

そうして習慣の惰性を打ち破って、知や学びのあり方そのものを根本的に考えなおしていくことが、この演習の目的になりますので、ぜひ本物の批判精神をもって、本演習に臨んでいただければと思います。

概念や論理、理論的構築物について自分の土俵で議論するに際してだけやけに雄弁であったり、天下国家については一人前に分析や批判をしてみせるくせに、照顧脚下、自分がいま携わっている営みや業績にその批判の矛先が向けられたとたんに、途方に暮れるか、そこから目を背けたり、それを弁護するための逃げ口上をひねり出そうと躍起になってしまう、そのようなハリボテの知性は、本演習にとっては邪魔ものでしかありませんので、まずは犬の餌にでもしておきましょう(そんな自意識は犬も食わないことは承知の上で。おっと犬に失礼ですね)。
授業開講形態等
Lecture format, etc.
本講義は「対面」にて実施されます。

このような当たり前のことを敢えて明示しなければならないことに、ここ数年のあいだ人類が経験した狂騒がよく表れていますが、そもそもプラトンがその対話篇でその姿を活写したソクラテスその人が語っているように、真なる学問や哲学的対話は、人格同士の現実における責任ある交わりによってしか存在しえないものです。

講義やゼミ、また大学という場所が、たかだか数十年の人類の発明品に過ぎないツールやアプリに断面を抽出され、音声や画面に切り詰められてしまったとしても、そこに何の実質的な変化が生じないような情報や知識での伝達の手段はなく、真の意味における「知恵」をお互いに交換し、学びあう場であってほしいものです。
遠隔授業(オンデマンド型)で行う場合の追加措置
Additional measures for remote class (on-demand class)
まず以下の東洋の賢人の言葉を私たちは肝に銘じる必要があるのかもしれません。

「機械有るものは必ず機事あり。機事有るものは必ず機心あり。機心胸中に生ずれば、則ち純白備わらず。純白備わらざれば、則ち神生定まらず。神生定まらざる者は、道の載せざるところなり」。

(機械を持てば、機械による仕事が必ず出てくるし、機械をもちいる仕事が出てくると、機械に捉われることが必ず起きる。機械に捉われる心が胸中にわだかまると、純白の度が薄くなり、純白の度が薄くなると、精神が定まらない。精神が定まらぬところには、道は宿らない)