授業の目的 【日本語】 Goals of the Course(JPN) | | このゼミの目的は、政治思想史において長く古典と呼ばれてきた書物を読解することによって、これまで人類を絶えず問いへと誘ってきた根本的な事柄について、各人が洞察を深めていくことです。善き生とはいかなるものか?正しき社会はどうあるべきか?美しいものはなぜ美しいのか?真実は存在するのか?などなど。これらの問いは日常的にはっきりと自覚されているかはさておき、人間として生を受けた以上、避けることのできないものとして、私たちの人生の背後で、いつもその基調を響かせています。
このゼミの主たる活動は、過去に生きた哲学者や思想家たちを毎回ゲストに迎えながら、各人がそのような問いと誠実に向き合い、自己の存在をより深く掘り下げていくことにあります。「思想は重たく、されど人生は軽やかに」をモットーに、ユーモアと真摯さの中庸を保ちながら、他者とそのような問いを分かちあうことの真の楽しみと喜びを享受できる場所へ、皆さんと一緒にゼミを育てていければ幸いに思います。 |
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授業の目的 【英語】 Goals of the Course | | The purpose of this seminar is for each person to gain insight into the fundamental things that have always invited humankind to question by reading books that have long been called classics in the history of political thought. What is a good life? What should a right society be? Why are beautiful things beautiful? Does the truth really exist? etc. Whether or not these questions are clearly recognized in a daily life, they are always echoing behind our lives as inevitable questions as long as we are born as human beings.
The main activity of this seminar is to invite philosophers and thinkers who lived in the past as guests, and each participant will face such questions and deepen their existence. It is plesant, if we can grow the seminar together to the place where you can enjoy the true joy of sharing such questions with others. |
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到達目標 【日本語】 Objectives of the Course(JPN) | | 世間では明確な目標を持ちなさい、ヴィジョン?をもって行動しなさい、自分がより成長するために何ができるか考えなさい、などということを盲目的に押しつける風潮がございますが、このゼミはそのような近視眼的な思考とは無縁の場所でございます。
そのような一見もっともらしいが、極めてエゴイスティックな自己実現的発想が完全に意味を喪失してしまうような絶望や不安を、真面目に直視しながら粘り強く物事を考えていく姿勢、安易に到達目標などが発見することのできないような、生きることに伴う測り知れない謎と常に向き合い続ける姿勢などなど、強いて目標を掲げるのであれば、このゼミではそのような真の意味で自らの人生に誠実に生きていく態度を養っていっていただければ幸いです。 |
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到達目標 【英語】 Objectives of the Course | | |
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授業の内容や構成 Course Content / Plan | | 「思想史」という学問において何よりも重要なのは、過去の聖賢や哲人たちの残したテクストの言葉と、実人生において出会うことです。そのような出会いが生じるために必要となるのは、体系的に順序だてられた学習過程でもなければ、事が始まる前にすべてをあらかじめコントロールしようとするような計画ではありません。
むしろそういったものは、何らかの方法や手続きを踏んで勉強を積み重ねていけば自分は何かをすでに理解したのだ、という錯覚をもたらすという点で、古典的テクストとのほんものの邂逅にとって妨げにすらなり得るのです。
この「思想史」という学問の性格からして、この「授業の内容」はきわめてシンプルに「古典を読むこと」、それ以上に何も付け加えるべきことはありません。
取扱われるべき文献は、西洋であれば古代ギリシア(プラトンやアリストテレスなど)からキリスト教中世や近代(ヴェーバーやマルクスなど)をへて現代にいたるまで多種多様ではありますが、対象を西洋世界だけに限定せず、比較思想的な視点を取り入れながら、儒教や仏教や神道などの東洋思想、さらにはときにはイスラム教世界、ラテンアメリカやアフリカの思想などまでを視野に入れて、その時々の現在において私たちが投げ込まれた状況に呼応し、私たちのよき対話者となりうるテクストを、毎年新しく選んでいこうと思っています。
「授業の構成」として、何が扱われるかが前もって記載されないことに困惑する方々もいるかもしれませんが、むしろ思想や哲学、あるいはテクストの読解を媒介とした新たな発見や他者との出会い、そこに生じる「縁」のもつ、生き生きとした「出来事」的な性格を楽しむつもりでゼミナールにご参加いただけましたら幸いです。 |
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履修条件・関連する科目 Course Prerequisites and Related Courses | | 人間であれば誰でも履修できます。
しかしながら、「人多き 人のなかにも 人ぞなき 人となれ人 人となせ人」という古人の言葉にもございますように、はたして「人間である」というこの素朴な条件を真に引き受けて私は生きている、と確信をもって語りうる人がどれだけこの世にいるでしょうか。
一つだけ言えることは、いまこのような問いに答えを持っていないにしても、日常に生じた微かな隙間において、このような問いの呼び声に少しでも耳を傾けた経験のある方なら、このゼミを履修する資格があるということです。
神は存在論を必要としないというハイデガーの言葉がありますが、そのように常に問いかけとしてしか存在しえないという、人間存在が背負う十字架だけがこのゼミの唯一の履修条件になります。 |
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成績評価の方法と基準 Course Evaluation Method and Criteria | | 基本的には各人が他人から成績を評価されることに一喜一憂することのないような、独脱無依の人間になっていっていただきたいと思っています。
ただし、それは単に勝手気ままに振舞うことや浅薄で何の根拠もない偽物の「個性」や「自分らしさ」に妄執することでなく、人間を含むあらゆる存在とのつながりの中において真なる自己のあり方をどこまでも深く探求し続けていくということでもあります。
ゼミへの参加、議論における積極性や主体性などは求められはしますが、それ以上に重要なのは、ゼミの場を離れての孤独と沈黙における真摯な内省と自己探求です。そのように己の足下を静かに見つめる姿勢を欠くならば、どんなディスカッション(とやら)や活発な発言も、ただの一過性の言葉遊びか、あるいは泥手で世界を汚す類の言葉となりうる危険がつねに隣りあわせであることをどうぞお忘れなく。
メディアが発達し、自己を表現することが容易になっているぶん、コミュニケーションやネットワークといった言葉を空念仏にしないためにも、世界に何かを発信しようとしてみる前に、発信するに足る自分であるかを内省してみることが求めれられる時代のような気もいたします。いくら世がグローバルと叫ぼうと、背負える命は小さな小さな自分のものひとつ、耳触りのいい言葉で目を眩まされぬように。きちんと周りに流されず自分で自分を見失わない眼を開いておくこと、成績評価や業績評価云々以前に、それが一番大事なことです。
ただし同時にまた、そのような自己探求や内省が偏狭な独断や現実離れした妄想の温床となることなく、真に人間らしい生きたものとなるためにも、私たちはその道筋を他者と分かちあい語りうるような場所を必要としていることも、真摯に引き受けなければなりません。ただ安易に意見をぶつけあうのではなく、真理をまえにしてお互いがお互いを照らしあう、そうすることによって私たちはより私たちの姿をより明晰に見つめることができるのです。
お互いに鏡の汚れたもの同士が、その汚れた鏡に映った姿を見せあって自他を比較して、右往左往せざるを得ないのが浮世なる娑婆世界の悲しさとはいえ、そのなかでまずは自分の鏡をきちんと磨いていくこと、そしてお互いが真実に照らして鏡の歪みを矯正しあうこと、まずはそんなことから始めてみたいものです。
そうして教員を含めて、参加者の誰しもが他者との関わりの中で自己を誠実に見つめながら生き、お互いが数値化や記号化などされ得ない人格として交わろうとする意志をもち続けるとき、目に見える成績評価などというものがどれほど意味をもつでしょうか。 |
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教科書・テキスト Textbook | | 特にありません。ゼミで扱うテクストについては、皆さまとの相談のうえで、適宜こちらから指示いたしますが、そこで語られる言葉を真に活きたものとするのは私たち自身の心の創造的な働きです。
それを忘れてしまえば、すべての言葉は自分や他人を惑わすか、あるいは眠りに誘うだけの死物となってしまうことを注意しながら、一緒にゼミという場所を生み出していきましょう。 |
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参考書 Reference Book | | 特にありませんが、森羅万象からなる日常そのものが皆さんに教えを説いている参考書であるということを忘れないでください。
容易に情報や知識を手に入れることができるツールが巷ではますます溢れかえっていますが、氾濫する膨大な記号の喧騒の中から自分が素朴に問うべきことを教えてくれるような真の参考書は実は、紙面上でも画面上でもなく、日ごろ疎かにされがちな自分の心のうちに静かに眠っているのかもしれません。
文明の利器に囲まれずとも、書架に厳めしい本が一冊もなくとも、この身一つさえあれば、いつでもどこでも堂々と学問しながら生死を歩んでいくことができる、そういう境地をぜひ養っていってください。 |
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課外学習等(授業時間外学習の指示) Study Load(Self-directed Learning Outside Course Hours) | | 「道爾(ちか)きに在り、而(しか)るに諸(これ)を遠きに求む(孟子)」。この古人の言葉が示しているように、学問や「道」が私たちにとってもっとも近いところ、つまりは私たち自身の生そのもののうちにあるとすれば、そもそもゼミには内部も外部もあるはずがありません。それを踏まえた上で強いていうのであれば、講義に登場した思想家の言葉を、よくよく自己の日常のうちで反復し味わい尽くすこと、それが皆さんに課せられる唯一の課外学習となります |
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注意事項 Notice for Students | | のんびりと腰を据えて古典の意味を紐解いていくことが活動の中心になりますので、文献を入手すること以外に特に参加の要件はございません。というわけで特に注意はないのですが、このゼミで必要なことを一つあげておくとすれば、それは「他者」と「共に問う」姿勢ということになりましょう。
具体的にいえば、それは一つには「古人」と「共に問う」ことです。古典には容易にその意味を伝えてくれないような難解なものもありますが、時代を超えてそれらと対話をするためにも、その言葉に真摯に耳を傾け、それが対決している問いを粘り強く継承し、それを自分のものにしていく努力がそこでは求められます。
もう一つは、「ゼミの参加者」と「共に問う」ことです。不思議にも同じ時代に生を授かり問いを共有することになったかけがえのない存在として、まずは他の参加者の言葉に敬意を込めて耳を傾けるとともに、ユーモアや節度をもって自らの意見を他者に伝えることもまた必要になります。
そうして多種多様な「他者」たちと共に問いかけ、問いと答えの間を巡りめぐりながら自らを捉えし続けることで自己の存在を果てしなく究明していく探求の道。一見して思想や哲学というと、変わりものの趣味か小難しい概念や論理を振りかざすことと錯覚しがちですが、それは大間違い。問いかけ求めるものとして誰かと一緒に生きていかざるをえない。この人間として生命を授かったものが背負う不可避の運命を自覚的に引き受けること、それが太古からリレーされてきた思想や哲学という活動の本質でございます。
この道で待つのは答えの出ない困難な問いばかりですが、そのような謎に直面した経験はその度ごとに皆さまの存在に豊かさと広がりをもたらしてくれることでしょう。一つの問いを真摯に背負うごとに、一つまた自己が深まっていく。この学問という営みから溢れでてくる掛け値のない喜びに興味をもたれた方のご参加をお待ちしています。ゼミはあくまで限られた場所に過ぎませんが、その機会を通じて皆さんの生が無限の広がりへと開かれ、心の中に大学を保ち続けながら、一生涯かけて育てていくべき種を一つでも発見することができましたら嬉しく思います。 |
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授業開講形態等 Lecture format, etc. | | 本講義は「対面」にて実施されます。
このような当たり前のことを敢えて明示しなければならないことに、ここ数年のあいだ人類が経験した狂騒がよく表れていますが、そもそもプラトンがその対話篇でその姿を活写したソクラテスその人が語っているように、真なる学問や哲学的対話は、人格同士の現実における責任ある交わりによってしか存在しえないものです。
講義やゼミ、また大学という場所が、たかだか数十年の人類の発明品に過ぎないツールやアプリに断面を抽出され、音声や画面に切り詰められてしまったとしても、そこに何の実質的な変化が生じないような情報や知識での伝達の手段はなく、真の意味における「知恵」をお互いに交換し、学びあう場であってほしいものです。
ひとがそこに集えば、いかなる制度・組織も、ツールも書物すらもなくとも、そこに「学び」がある。その「無一物」の精神を忘れず、いたいものです。 |
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遠隔授業(オンデマンド型)で行う場合の追加措置 Additional measures for remote class (on-demand class) | | まず以下の東洋の賢人の言葉を私たちは肝に銘じる必要があるのかもしれません。
「機械有るものは必ず機事あり。機事有るものは必ず機心あり。機心胸中に生ずれば、則ち純白備わらず。純白備わらざれば、則ち神生定まらず。神生定まらざる者は、道の載せざるところなり」。
(機械を持てば、機械による仕事が必ず出てくるし、機械をもちいる仕事が出てくると、機械に捉われることが必ず起きる。機械に捉われる心が胸中にわだかまると、純白の度が薄くなり、純白の度が薄くなると、精神が定まらない。精神が定まらぬところには、道は宿らない) |
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